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歴史

1904-1919

鳴尾の源流

コースとしての横屋ゴルフ・アソシエーション

横屋のクラブハウス
横屋のクラブハウス。左奥の麦わら帽子をかぶった人物が、福井藤太郎。 中央は神戸ゴルフ倶楽部のオリジナルメンバーだったA.W.クロンビー、右はF.E.ウィルキンソン

横屋のコースが造られた兵庫県武庫郡魚崎村は、現在の神戸市東灘区魚崎南町である。魚崎の海岸に面していたこの砂地に、土地の農家、福井藤太郎の力を借りて、ロビンソンはサンドグリーンの6ホールを造り上げた。

「当時のティーもグリーンも砂で、六ホールスありまして、横屋の土地は砂地の為めに、グリーンを造るのに土が要ります。車一台一円三十銭位で、阪神沿線打出から壁土を買ったのです。グリーン一つ作るのに八台程の土が要ったと云います」(『日本のゴルフ史』より)

クラブハウスとして使用されたのも、福井藤太郎の家であった。
「ロビンソン氏がクラブを舁いで、横屋に来たその当座は、リンクスの北西の隅にあった福井藤太郎の住んでいた百姓家(原文ママ)の座敷を、クラブハウスとして借りて、それにあてていました。靴を穿いたままボサボサと畳の上に上がり込んだもので、文句を云うには言葉が通じなくて、その儘になったと云います」(『日本のゴルフ史』より)

福井藤太郎は、日本初のプロゴルファーとなる福井覚治の父親である。ロビンソンと父・藤太郎との邂逅がなければ、覚治が横屋でロビンソンのキャディとなることはなく、プロゴルファーになることもなかったであろう。

当時の様子を、37歳になった覚治はこう語っている。

「事の起りはロビンソンさんが土地を物色されて、今のリンクスの土地を管理していた私の父とロビンソンさんの番頭酒井さん(原文ママ) の通訳でリンクス製作が契約されました。始めて西洋人の言葉を聞くので珍しかった訳です。それから打出の山から壁土を購い取って砂を混ぜて八間位のサンドグリーンを作り、ホールはロビンソンさんが錻力(ブリキ)のホールカップを持って来られそれを使って居ました。勿論ホールの直径41/4吋(インチ)あったかどうかは疑わしいものです。

プレーヤーはロビンソン、ジヤックソン、トムソン、ドント、マッキー、ハルセン、ロカスさんと云った人達でした。調べて見れば日本人でやっていた人もあるらしいのですが誰も見た者がない。恐らくラウンドなどせず、クラブを握っただけと云う位のことなのでしょう。私の眼に入ったのはその数年後、倫敦(ロンドン)から帰って正金銀行神戸支店長になられた安部成嘉さんです」(『ゴルフドム』1930年3月号『福井覚治 始めを語る』より)

福井家のクラブハウスのレイアウト
コースの北西にあった福井藤太郎の家をクラブハウスとして使用したため、 1番ティーがこの位置になった。
ヤーデージとレイアウト図のホールの長さに矛盾点はあるが、 これが開業当時のおおよそのレイアウトだと思われる(『日本のゴルフ史』より)

横屋ゴルフ・アソシエーションのメンバーは創立当時から、神戸ゴルフ倶楽部のメンバーを主とした欧米人であった。その欧米人たちのゴルフクラブに、26番目の会員であり、日本人初の会員、安部成嘉が入会したのは1913年(大正2年)のことであった。そしてこの年、横屋ゴルフ・アソシエーションは借用していた土地の問題から、解散を余儀なくされることとなる。安部成嘉は、日本人初の会員であり、横屋ゴルフ・アソシエーション最後の会員でもあった。

3番ホールの横を草刈り機で整備する、福井藤太郎
3番ホールの横を草刈り機で整備する、福井藤太郎。遠景に見えるのは六甲の山々。 右端に白く見えるのが3番のサンドグリーン
1906年の4番ホール
1906年の4番ホール。 神戸ゴルフ倶楽部のオリジナルメンバー、クラウザー撮影

次項では横屋ゴルフ・アソシエーション創立当時の様子と、その誕生に欠かせない存在だった神戸の欧米人たちについて、ひも解いてみよう。

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