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歴史

1930-49

猪名川コースの誕生

Establishment of The Inagawa Course

浜のリンクスから山のリンクスに。鳴尾浜を余儀なく返還せざるを得なくなるという運命のいたずらが、鳴尾ゴルフ倶楽部の理想郷を生み出した。猪名川コースの誕生である。コースデザインは、クレーン3兄弟。その後、アリソンの勧告によって際立った。幾度となく暗礁に乗り上げた建設を支えてくれる人たちの出現は、まさに降臨と言える。「NARUO」は、浜と山のコースを併用する至福の時代があった。浜のDNAは、猪名川コースへと受け継がれていく。それはコウライ芝だけでなく、クラブライフやスピリッツも同様だった。

──三田村昌鳳

1930 昭和5年

JGA主催によるウォルター・ヘーゲン、ジョー・カークウッドのエキシビジョンマッチを浜コースで開催(5月)

鳴尾のキャプテンを務めた西村貫一が「日本のゴルフ史」を 発刊(9月25日)

猪名川コース 10月12日にオープニングセレモニー

わずか1年で正式開場に漕ぎつけた猪名川コースでオープニングセレモニーが行われたのは、10月12日の...

開場式当時のスコアカードに掲載されたホール図とヤーデージ、そしてクラブへの案内図
1931

アリソンからのコース改修に関する「勧告書」を受け取る(1月7日)

髙畑誠一の懇願を受け、廣野ゴルフ倶楽部の設計、茨木カンツリー倶楽部(東コース)、鳴尾ゴルフ倶楽部...

1932

社団法人認可(1月15日)

第1回ゴールドメダル競技開催 (4月27日、猪名川コース、参加クラブ・茨木、宝塚、鳴尾、勝者・茨木。現在のインタークラブマッチの発端)

「婦人キャディ」の誕生

昭和7年頃の鳴尾コースのキャディさんのスタイル
1933

ゴルフの関連文書(書類、規則等)が、英文から邦文に変わる

1934

クラブ内の意思の疎通を図ることを目的とした 社報「THE NARUO BULLETIN」を創刊(9月)

室戸台風により、鳴尾コース水没(9月21日~10月13日まで閉場)

1935

猪名川コース、10番・15番に鉄筋コンクリートの橋梁を架設

1936

定款の改正で、会員を「社員」と制定(2月23日)

1937

JGA・KGA・KGUの3団体がジーン・サラゼンを招待 鳴尾(猪名川)へは、メンバー W.T.ラッツ氏の招きで来場(10月29日)

1939

新地主 蓬莱不動産会社より鳴尾コースの明渡し要求(10月末期限)

浜コース、「さよなら競技会」を開催(9月24日)

浜コース、閉場(10月1日)

2コースを持つ至福の時代が続いたのは9年余りにすぎなかった。1939年6月30日、1928年から鳴尾の土地の...

1940

浜コースのコウライ芝を猪名川コースに1500坪分移植

1941

ガソリンの規制により、山下駅からの自動車での送迎が凍結徒歩での来場となる。戦時によるキャディの雇用が困難となり、年末にはJGAからの指示でキャディの随伴を中止とする

太平洋戦争開戦(12月8日)

1944

7月に猪名川コースでのプレーが打ち切りとなり、8月6日に閉鎖

9月に全コース(22万4546坪)とクラブハウスを中部軍が借上げ

1945

社員権の譲渡に終止符(1月1日)

終戦(8月15日)

クラブの復興を進駐軍に要請

軍の借上げが解除となり、12月1日に兵庫県庁の管理に戦時中は軟禁されていたクレーン兄弟が解放となり、中村理事長、佐藤常務理事らとともに復興委員会設立

1947

比較的状態が良かった14番、15番、18番の3ホールで復旧作業、 4月6日には、3ホールを3ラウンドする「発会記念競技会」を開催

1948

7月11日に12ホール、9月26日には15ホールが復旧、復興記念競技の開催

1949

関西ゴルフ連盟が再発足

メンバーに寄付を求め、残りの7、8、9番の復旧作業が終わり
完成祝賀会、祝賀競技を開催

1945年8月15日。終戦の日を迎え、猪名川コースにもようやく日の当たる時がやって来た。大阪陸軍兵器補給...

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