loading
読み込み中...

電話

歴史

1904-1919

鳴尾の源流

六甲から横屋へ。
鳴尾の源流を生み出した、ゴルフへの情熱

横屋ゴルフ・アソシエーションの創立者ウイリアム・ジョン・ロビンソンは晩年、日本最初のゴルフ歴史書「日本のゴルフ史」(1930年9月25日発行)の著者である西村貫一(鳴尾ゴルフ倶楽部1924年度キャプテン)に、次のように語っている。

「日本のゴルフの初めは六甲。グルーム、コーンス、ギル、私初めました。大変な石と竹、初めの冬叢や竹に火をつけ焼く。皆灰芝の肥しになる。その事、三年同じのことをする。中々悪いの草の根死な無い、困る。六甲は冬大変に寒い。雪降る。最初の年の冬、ゴルフ下(下界)ない淋しい。私横屋でゴルフ始める。六甲を開いた人グルーム。それよろしい、私横屋を始めた初めの人、月六圓金要る。メンバー十三人皆西洋の人、後になる ドント、ワレンもメンバーになる。その後日本の人安部サン これ日本の人の初め、横屋でゴルフするの時六百圓私獨り出します」(原文ママ)

1903年、六甲での写真
1903年、六甲での写真。 座っている人物は左から、A.B.エルトン、W.G.フィースト、H.ウェスターヘルト、A.H.グルーム。 立っている人物は左から、J.M.メイトランド、E.H.ギル、W.J.ロビンソン、不明、A.E.クーパー、不明。
W.J.ロビンソン
W.J.ロビンソン〈1852-1931〉 「日本のゴルフ創世期の恩人」として、 日本ゴルフ協会が選出した 「日本ゴルフ100年顕彰」の一人に、 A.H.グルームとともに選ばれている。 写真は、自宅の庭で、娘の緑ちゃんと寛ぐロビンソン

「日本のゴルフ史」に掲載されたこのインタビューは、1929年2月13日、東塩屋1070番地(現在の神戸市垂水区青山台)にあったロビンソンの自宅を西村が訪ねて行われたものである。当時、ロビンソンは78歳。「高齢であり、従って記憶力も弱ってゐられるので、話に順序も無く、年月日に関しては、ほとんど無頓着でありまして、記事になりませんでした」という西村の記述はあるが、事実関係に関しては概ね信用できるものであろう。

西村は「日本最初の神戸ゴルフ倶樂部に次いで出来た、第二番目の倶樂部は、横屋ゴルフ・アソシエーションで、その開祖は英人William John Robinson氏(一八五二年一月四日生)であります」と明記している。

横屋の土地は「グルームが3人の仲間とともに1898(明治31)年頃、神戸外人居留地(原文ママ)が条約改正されて内地雑居になるのを恐れて、その用意のために買っておいた土地で、1903(明治36)年にその必要がなくなりそのままになっていたものをグルームの好意により無償で借り受けたものであった」(『居留外国人による神戸スポーツ草創史』棚田真輔著より)という。

「一年中、ゴルフがしたい」というロビンソンの情熱から生まれた横屋ゴルフ・アソシエーションは、鳴尾ゴルフ倶楽部の誕生へとつながるだけでなく甲南ゴルフ倶楽部を生み出し、舞子、廣野へとつながる関西ゴルフ史の源流となる。グルームの蒔いたゴルフの種を、ロビンソンが育て、ゴルフはしっかりと日本の地に根付いたのだ。

関連記事

UP