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歴史

1914

鳴尾の源流

1914年、鳴尾ゴルフ・アソシエーションへ

新しい専用のクラブハウスが完成し、日本人の会員(安部成嘉)も加わり、順風満帆かに思えた横屋ゴルフ・アソシエーションが廃止されるにいたった理由は、A.H.グルームから借用していた土地が売却されることとなったためである。

前述したように、この横屋の土地は、居留地が日本へ返還されたときにKR&ACが移転できるようにと、グルームが、長男、宮崎亀次郎の名義で購入しておいたものだった。

グルームは1897年に、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収。社長に就任し、1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。ゲオルグ・デ・ラランデが設計したこの新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛していた。しかし日露戦争の戦費の返済から起こった経済恐慌のあおりを受けてオリエンタルホテルの経営状態は悪化。グルームは1913年に、横屋ゴルフ・アソシエーションの土地を横浜の「秋津洲不動産株式会社」に売却(実質的な売却先は、サミュエル商会)。1916年にはオリエンタルホテルの経営権も、実業家で「セメント王」と呼ばれた浅野総一郎に売却している。

土地の売却によりコースを失うこととなったW.J.ロビンソンだが、ゴルフクラブの存続をあきらめることはなかった。

新たな土地を求めたロビンソンは、鈴木商店が所有していた鳴尾速歩競馬場の跡地を無償で借り受けることに成功する。これにより、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市、武庫川団地付近)に9ホールのリンクスコース、鳴尾ゴルフ・アソシエーションが誕生した。

鳴尾ゴルフ・アソシエーション、開場当時の9ホール
鳴尾ゴルフ・アソシエーション、開場当時の9ホール

コースを設計したのはロビンソンや安部成嘉、A.C.スマート、そして造成したのは福井覚治と鳴尾村の農家、岡田力蔵であった。この岡田力蔵の家が鳴尾ゴルフ・アソシエーションの初代クラブハウスとなる。岡田力蔵はその後、鳴尾ゴルフ倶楽部「浜コース」のグリーンキーパーとなり、「猪名川コース」の造成時には現場長として工事を推進。「猪名川コース」の完成後には、グリーンキーパーを長らく務めた。

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