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歴史

1920-1929

鳴尾ゴルフ倶楽部の創立

欧米人と日本人が手を携えて3ホールからの事始め

鈴木商店が設立した豊年製油(現在のJ-オイルミルズ)の工場拡張により6ホールに縮小されていた鳴尾ゴルフ・アソシエーションが、いよいよ閉鎖されることとなり、その責任者というべきW.J.ロビンソンが鈴木商店の大番頭、金子直吉に宛て、多年無償で土地を貸してもらった御礼の手紙を出したところ、金子の秘書であった芳川筍之助から「今まで使用していた鳴尾の芝は置いていっていただきたい」との返事があった。芳川は、造成中だった舞子カンツリー倶楽部が鳴尾ゴルフ・アソシエーションの芝を買い取ろうとしていることを耳にしており、鈴木商店の社員でゴルフをするために「芝を置いていってほしい」と考えていたのだという。

関西ゴルフ連盟発行のゴルフ雑誌「ゴルフィング」
関西ゴルフ連盟発行のゴルフ雑誌「ゴルフィング」 (1936年創刊、1940年終刊)

鈴木商店の社員たちは、早速ゴルフを始めようと、鈴木商店のロンドン支店長を務めていた髙畑誠一に頼み、クラブとボールを10組ほど送ってもらったが、肝心のコースは人の背ほどの高さに伸びた葦などで草ぼうぼうというありさま。「一々刈っていては面倒とばかり、焼き払ってしまえということになり、火をつけたところ、火は八方に広がり、しまいには火勢強く消せなくなり、あたりに人家はないとは云え、火の手が高く上がったものだから、西宮か鳴尾かの警察からこれを見付け、巡査が飛んで来るやら、大目玉を食うやら、大騒ぎとなったこともありました」(元名誉書記、武岡忠夫談。『ゴルフィング』1939年9・10月号より)。

1921年に発行された、H.C.クレーン宛の入会費領収書
1921年に発行された、H.C.クレーン宛の入会費領収書

それでも、鳴尾ゴルフ・アソシエーション時代の6ホールの中から、なんとか3ホールだけは使えるようになったが、当初はただただ球を打ちまくっているだけ。いつしかゴルフを知る人間がいなくては困るという話になり、芳川がイリス商会にいたころの知り合いのA.C.ガワーを引き入れ、その知り合いでゴルフに精通していたチャイナ・ジャパン・トレーディング商会のブリスターなどを仲間に加えた。

A.E.クレーン(アルバート・エドウィン・クレーン)は、ガワーの友人でチャイナ・ジャパン・トレーディング商会のミッチェルに誘われて1920年に入会。同時に、弟のJ.E.クレーン(ジョセフ・アーネスト・クレーン)も鳴尾ゴルフ倶楽部に入会することとなった。A.E.クレーンはすぐにクラブを運営する委員となり、J.E.クレーンも1921年から委員となっている。1921年にはH.C.クレーン(ハリー・クリストファー・クレーン)も入会した。

後年、鳴尾ゴルフ倶楽部のみならず日本のゴルフの発展に貢献したクレーン兄弟だが、J.E.クレーンは後に社報「THE NARUO BULLETIN」の創刊号で「ゴルフはまったく知らず、知ろうともせず誘われるままに入会した」と語っている。クレーン兄弟が鳴尾ゴルフ倶楽部に勧誘されゴルフと出合ったのは、まさに運命だったと言わざるを得ない。

ゴルフをするJ.エブラハム
1921年の浜コースの風景。人物はJ.エブラハム(日本名、箙 譲衛)
「THE NARUO BULLETIN」(1934年9月)創刊号に掲載された、J.E.クレーン談「鳴尾と私」
「THE NARUO BULLETIN」(1934年9月)創刊号に掲載された、J.E.クレーン談「鳴尾と私」

1920年度の鳴尾ゴルフ倶楽部

プレジデント 鈴木岩蔵
キャプテン T.深沢
名誉書記 A.C.ガワー
名誉会計 佐竹 治
委員 A.E.クレーン、
A.ミッチェル、
亀井 之助
名誉会員 W.J.ロビンソン、
鈴木岩蔵、鈴木岩次
正会員 38名
(名誉会員3名を加え、会員数は41名)

入会金30円 月会費2円

1920年、創立時の役員など。
「日本のゴルフ史」より

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