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歴史

1924

鳴尾ゴルフ倶楽部の創立

18ホールを持つ日本初のリンクスコースが完成

鳴尾の浜コースが18ホールとなったのは創立から4年後、1924年のことである。1922年に当時のキャプテン、E.G.フラッグレー(この年、英国に帰国)が18ホール案を提唱したが、土地の所有者である鈴木商店は「会社がいつ使うことになるかわからない。お金をかけてコースを造ったのに返せということになっては気の毒だ」との理由で、これを認めなかった。
18ホール案がようやく認可されたのが1924年1月の総会であった。この頃、大阪のゴルファーたちが茨木に18ホールのコースを造成しており、鳴尾には、これが完成すれば会員の多くを奪われるのではないかという危機感があった。とにかく18ホールを完成させてしまおうという算段であった。
浅野孝之助(1923、1931、1932年の名誉書記)が根気よく鈴木商店に通い、「いかなる短期間に立ち退きを要求しても無条件で応じてもらう」という条件付きではあったが、18ホール拡張の承諾を得ることに成功する。
工事の責任者はキャプテンを務めていた西村貫一とJ.E.クレーンと決まった。新しい9ホールの設計を任されたJ.E.クレーンは「参考の書物──どんな本を読んだかは忘れましたが──も読んで新9ホールと旧9ホールとの連携についても勉強もし努力もしました」(J.E.クレーン談「THE NARUO BULLETIN」創刊号より)と、当時の意気込みを語っている。
この時の会員数は218名にまで増えていたが財政は豊かではなく、9ホールの増設費として認められたのはわずか3000円。当時の大卒初任給がほぼ50円ということから見ても、人を雇い重機を使っての造成は難しかったことだろう。西村貫一は『日本のゴルフ史』の中で、当時の様子をこう語っている。
「毎日毎日鳴尾へ通いました。後になって自転車をクレーン氏が買い込んで乗り出しました。クレーン氏の当時の努力は実に素晴らしいものでありました」

リンクスらしい光景が広がる、1924年の浜コース。
リンクスらしい光景が広がる、1924年の浜コース。
右端はJ.エブラハム。一番左の人物は従来、A.E.クレーンとされてきたが、
100周年写真集発刊後に、新たな資料をもとに、R.G.クレーン(愛称ボブ)とした

9ホールを造成しているうちに新入会員が集まり、寄付金と合わせて3200円があらたに追加され、無理に無理を重ねた末、5万坪の敷地に、新しい9ホールが完成した。これにより浜コースは、5080ヤード、パー68、ボギー73という“18ホールを持つ日本初のリンクスコース”となったのである。
1924年9月14日には、鳴尾ゴルフ倶楽部の「18ホールリンクス開き」が行われた。
記念競技には20名、記念の式典には50余名が参加。プレジデントの鈴木岩蔵はこの席でスピーチを行い、委員たちの努力に謝し、鳴尾ゴルフ倶楽部の略歴を語り、特にW.J.ロビンソンの功績を賞した。そして「日本唯一のこの海浜リンクスを、日本のみならず少なくとも東洋一のリンクス足らしめんことを」と、そのスピーチを結んでいる。

1924年、浜コース18ホール完成記念競技の始球式で使用されたボール
1924年、浜コース18ホール完成記念競技の始球式で使用されたボール

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