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歴史

1927

鳴尾ゴルフ倶楽部の創立

H.C.クレーンが総仕上げ。
チャンピオンシップコースの完成

18ホールの完成式典で、会長の鈴木岩蔵が語った「日本唯一のこの海浜リンクスを、日本のみならず少なくとも東洋一のリンクス足らしめんことを」との思いは、次々と実践されていく。

1926年3月14日の総会ではコース改造に着手することが決議される。外国銀行から5000円を借りてこの費用とする予定だったが、新入会員がたくさん入ったため、自前の資金でこれを行う事が出来た。この改造によりコースの全長は5310ヤードとなった。

1926年から1927年にかけて、6000ヤードのチャンピオンコースを目指し、さらなる改造工事が行われた。1920年から1925年の終わりまでに、鳴尾ゴルフ倶楽部がコースの改良に費やした金額は23354円25銭であったのに対し、1926年から1927年の終わりまでに費やした金額は53716円11銭という大工事であった(『日本のゴルフ史』より)。

これらのコース改良の主役となったのはJ.E.クレーンの兄、H.C.クレーンである。

「私と西村氏と二人でとも角も形をつけた十八のホールスが、その後兄のH.C.クレーンによってルージュをつけ、アイシャドウを引きしてメークアップが行われました。ルージュをつけたと云い得るのは、クラブハウスが大正十四年の暮近く武庫川辺に新築されて、ホールスの順序が、私のときから変更され、コース全体にわたって、ゴルフコースらしくなった頃でありましょう。またアイシャドウを引いたことにあたるのは、チャンピオンシップコースにして、6000ヤード・パー72のコースになった昭和二年の頃になりましょう」(J.E.クレーン談『ゴルフィング』1939年9・10月号より)

1927年、6030ヤード、パー72の堂々たる18ホールが、こうして完成した。7月17日、記念の36ホール競技が行われ、優勝はW.J.ボロウマン、2位A.E.クレーンという記録が残されている。また、チャンピオンコースとなって最初の公式競技、第2回関西オープンゴルフ選手権が1927年11月3日には開催されている。36ホールストロークプレーで、優勝は神戸ゴルフ倶楽部の少年キャディからプロになった中上数一。2位は上海から来日中だったプロゴルファーのゲオ・ノリス。3位はアマチュアの赤星六郎であった。

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