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ヒストリー

 2022/04/10

「子どもに教育を、地域にお金を」猪名川コース誕生に貢献した、野原種次郎

衆議院議員として国政で活躍した後、川辺郡東谷村(現・川西市)の村長となった野原種次郎が、地域の振興のために最初に手掛けた仕事が、鳴尾ゴルフ倶楽部建設のための土地の斡旋であった。

その当時の様子を、野原種次郎の伝記「野原鉄心翁」(1938年、多田神社崇敬会発行)は下記のように綴っている。

「氏(注・野原種次郎)が村長の職に就いてまだ間のなき四年の春まだ浅き或る日、相当広漠な原野を物色している人達が突然氏の家に現われた。仔細を聞くと、鳴尾のゴルフ・リンクスがその大半を他の重要なる用途に提供せねばならぬことになったため、新たにそのコースを設くべき適当の地所を索めているものであることが判った。心中確かに期するところのあった氏ら父子は爾来強くクラブ側を引き付けて置きつつ、いま現にゴルフ場となっている畦野や山原両区の人々を説得して、その交渉に応ぜしむるよう斡旋に力めたものである」

事あるごとに「子どもに教育を、地域にお金を」と唱えていたという野原が、土地が売却された浜コースに代わる用地を求めていたクレーン3兄弟らに協力したのは、地域の発展が目的であった。

しかし地域発展という大義名分があったとはいえ、その斡旋は容易なものではなかった。先祖から引き継いできた土地を農家が手放すことには、相当な抵抗があったのだ。

野原は「ゴルフは地域の発展に役立つだけではなく、国民の体格の向上、スポーツ精神の向上に極めて有意義なものである」とし、粘り強く一軒一軒と交渉を繰り返し、数カ月後には土地売買の仮契約を終え、年末には地代の受け渡しを終えている。

工事が始まると、畦野、山原両区民たちがその仕事にあたり、コースが完成してからも草取り、芝刈りなどの仕事は両区民の仕事となった。

また昼間は婦人、放課後や休日は子どもたちがキャディを務めることで、区民の生活は豊かになり、隣村の住民たちから大いに羨ましがられたという。

「学童らの中には卒業期までに二三百円の貯金をなし、それを学資として上級の学校に進むものさえ続出しているという風で、全く今日では区民全体が衷心からこれを感謝しているのである」(『野原鉄心翁』より)

野原がこの世を去ったのは1937年9月11日のことである。66歳であった。ゴルフ雑誌「ゴルフィング」の1937年10月号「Naruo Notes」にはその追悼文が掲載された。

「社団法人鳴尾ゴルフ倶楽部が存続する限り、又猪名川コースが存続する限り、コースの松や芝の緑が、年と共に愈々濃くなるように、故人の功績は、益々光輝を放ち、とこし永に滅する事はなかろう」

W.J.ロビンソンやクレーン兄弟らとともに、野原種次郎もまた「鳴尾の記憶」に残さなければならない人物の一人なのである。

野原種次郎 のはら・たねじろう
1872(明治5)年5月8日、野原幸七の第三子として誕生。
1903年、県会議員となる。
1907年、病に倒れ、1908年には県会議員を辞職、
1909年、北攝銀行頭取の立場も譲り、闘病生活が始まる。
1913年、大病から復帰して東谷村の村長となる。
1915年、東谷村村長の任期満了時に県会議員に再選。
1925年12月より衆議院議員として国政に参与(掲載写真はその当時のもの)。
1928年、国政より引退し、県会議員・東谷村村長に復帰。郷土への奉仕活動に専念。
1937(昭和12)年9月11日、脳溢血により逝去

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